AIに嫌気が差してるあなたへ
チャッピーが登場してから、大規模言語モデル(LLM)の成長は留まることを知らない。新しいモデルやツールが雨後のタケノコのように公開されている。エンジニアとして働く僕は、LLMの黎明期からその成長を享受してきた。
「ChatGPTにコード書かせてみようよ」
「チャッピーからコピペすんの面倒くさいからIDEに直接導入したったwww」
「DeepSeekっていうのがヤバいらしいぜ」
「まだIDEでコード書いてんの?時代はCLIツールだよ」
「Claude Codeが一晩でやってくれました」
ここ3年で、僕の仕事はガラリと変わった。タスクを処理するスピードは確実に上がったし、ここ最近で開発してるアプリはどれもLLMを活用してる。これまでにない自由度と創造性でなんでも作れる気がする。
それなのに、僕の心は晴れやかではない。
近頃、ビッグテックのお偉いさんは「AIが人間の仕事を担う」と謳う。Anthropic社のCEO、ダリオ・アモデイは「6カ月でコードの90%がAIによって書かれるようになる」と述べている。

マイクロソフトAIのムスタファ・スレイマンはさらにセンセーショナルな予言をしてる。「ホワイトカラーの仕事のほとんどすべてが今後1年から1年半以内にAIによって自動化される」らしい。

これが会社の株価を上げるためのポジショントークなのはわかってる。
わかってる、が。
それでも疑懼の念を抱かざるを得ないのだ。
仕事が奪われる
僕はWindows95と同い年。パソコンが大好きなデジタル・ネイティブ世代だ。子供の頃からパソコンや携帯機に張り付いてゲームするのが好きだった。ゲームの裏技(バグ)を使うのが好きで、よくネットで調べてた。乱数調整とか、ワープとか、壁抜けとか。過去を振り返ると、ソフトの仕様とバグの原理を理解するのが好きだったんだと思う。
その興味が転じて、大学では工学部に入った。「将来はロボットがアツいだろう」という大雑把な予見から、ロボット工学を専攻。経路探索・マルコフ連鎖・機械学習などの昔ながらのAIを学んだ。自前のコードを書いて、それが動くのを見るのが楽しかった。
社会に出てからもソフトウェアを書いてきた。Python, Java, C, Go, Javascriptなどなど、一通り勉強した。機械学習でモデルを作り、それをアプリで公開したりした。やっぱり、自分が作ったものが動くのを見るのが好きだった。
大学で勉強を始めてから12年。先輩エンジニアから見れば「たかが12年」かもしれない。だが、僕からみたら「されど12年」なのだ。僕の12年と引き換えに培ってきた技術と実績だ。この12年はもう戻ってこない。
だから、AIが完璧なコードを一発で生成してるのを見ると嫌な気持ちになる。
僕が何日も試行錯誤を重ねて書くコードを、AIは数十秒で生成できちゃう。コードの出来もどんどん改良されていく。12年かけて勉強してきた僕の知識より、AIは何千倍も知ってる。
自前でコードを書く必要がなくなってつまらない。
過去12年の積み上げが無駄だった気がして虚しい。
自分の価値が下がってる気がして怖い。
AIの隆盛を見ると、そんな負の感情が僕の中に湧き上がってしまう。
歴史を振り返って
AIの流れはもう止められない。人間社会にとって、AIは既になくてはならない必需品だ。ソフトウェア業界では、Claudeで書かれたGithubコミット数は右肩上がり。

ソフトウェアだけじゃない。AIは既にいろんな業界に影響を及ぼしてるし、様々な業種の自動化が進められている。ゴールドマン・サックスは、AIによって2027年に経済全体に1.5%の生産性の向上を見込んでいる。
僕はこれを歴史の転換点だと思ってる。我々は、産業革命に匹敵する技術革新の真っ直中にいるのだ。100年後の歴史の授業では、2020年代のAI革命を取り上げてるだろう。
ならば、AIに対する懸念や不安感と向き合うヒントが、歴史にはあるんじゃないか?
下記の記事に載ってる事例がすごく面白かったので、ちょっと抜粋・翻訳したい。

カメラ
カメラが発明される前の時代。人物や造形を形に残したかったら、写実画家の助けが必要だった。人や物を写実的に描く技術は会得が難しく、重宝された。写実画家への報酬は高かった。
しかし、写実絵画界隈はカメラの誕生で一変した。「リアルな映像を残す」ニッチはカメラが担うようになり、「写実的に描く技術」の経済的価値は暴落した。その一方で、カメラで残す写真の良し悪しを司る「芸術的感性」の価値は、相変わらず評価されている。この感性を持ち合わせてる人は、現在でも「写真家」として重宝されている。
5W1Hで言い換えてみよう。「リアルな映像を残す」作業の
- 「How」は変わった(絵画→カメラ)
- 「Who What When Where Why」(芸術的感性)は残った
また、カメラの誕生をマクロ視点で見ると、美術全体は成長している。印象派や抽象派などの芸術運動が花開いたのだ。「リアル」に囚われる必要のなくなった美術家は、新しいことに挑戦する機会を得た。
写実派の画家もまた、ニッチとして存在感を示している。現代でも素晴らしい写実画家が写真顔負けの芸術を生み出している。
まとめると、カメラの誕生により
- 物事を写実的に「描く」技術は社会の必需品からニッチに移行し、価値が下がったが、
- 「描く」ことの価値は相対的に上がった
ラッダイト運動
1810年代、第一次産業革命による生産の効率化によって地位低下の影響を受けた労働者が、抗議として行った機械破壊運動が「ラッダイト運動」である。
熟練の機織り職人の手作業で賄われていた綿工業が、蒸気機関と紡績機の登場で一変。機械を使った機織りは筋力や技術を必要としないため、女性や子供を含む訓練を受けていない労働者でもできる作業になった。未経験者は機織り職人より低賃金で雇えることから、従来の職人が失業する現象が起こる。こうして失業した労働者の不満はやがて爆発し、抗議の一貫として機械破壊運動へと進むこととなる…
かなり端折ったが、話の大枠はこんな感じだ。こう書いてみると、カメラの例やAIと通じるものがある。
長い年月をかけて培ったノウハウを持った人のみにできた仕事が、機械の登場によって誰でもできるようになる。結果、服の生産コストは大幅に下がり、誰もがタンス一杯に服が買える時代になる。マクロ視点でみると、繊維業界は大幅に成長し、雇用数も爆発した。しかし、ミクロ視点では、それまで業界を担ってきた手動の機織り職人がお役御免となった。
技術の歴史を勉強してるとどうしてもマクロ的な恩恵にフォーカスしがちである。その裏で、人生がひっくり返った写実画家や機織り職人がいた事を忘れてはいけない。膨大な時間を費やし、勉強や訓練を重ねてやっとの思いで一人前になった写実画家や機織り職人が、機械の登場によって無価値になってしまったのだ。マジ怖いって。
現代に戻る
歴史を踏まえて、エンジニアの私がAI時代をどう生きるか考えてみよう。
AIによって「コードを書く」作業が大衆化するのは確定だと思う。この作業は簡易化され、誰でもできるようになる。結果、価値が下がる。
その一方で、ソフトウェア業界全体は成長を続ける。AIの隆盛によって、新しい分野が勃興し、業界全体でできることが増えていく。
これからの時代、大事なのは「How」ではなく「Why」なのだ。
- カメラが誕生し、「どうやって」描くかは無意味になり、「何を」描くかが大事になった
- 機織り機が誕生し、「どうやって」織るかは無意味になり、「何を」織るかが大事になった
- AIが誕生し、「どうやって」コードを書くかは無意味になり、「何を」書くかが大事になる
つまり、「何を作るか」正しく決断する能力が今後重要になってくるのではないだろうか。広い視野を持って、自分が作ったものがどういう仕組みで動くのか理解し、設計し、AIに作らせる。プロジェクト全体のシステム設計やデザイン作業が大事になってくると思う。
また、AIの影響で世に出てくるソフトウェアの絶対量は増える。それは機織り機の登場で服の生産量が増えた現象と同じだ。だが、AIの操り手が素人だと、ソフトウェアのクオリティはどうしても下がる。我々エンジニアは、これまで業界で得たノウハウを活かして、クオリティの高い物を作り続けていけば、差別化はまだ可能だろう。今のところ、AIの出力は操り手の技術に依る傾向が強い。
終わりに
AIによるホワイトカラーへの影響は本物だ。業界にも雇用にも混乱が生じてる。技術革新による「自分」の市場価値の低下も、とても怖い現象だ。
もしあなたが、業界の動向を不安に思い、AIに嫌気が差しているのであれば、それは至って正常な反応だと僕は思う。僕はこの記事を書きながら、自分の中のモヤモヤを少しは言語化できた。歴史を振り返ってヒントも得た。残念ながら、AIから完全に逃げることはできないようだが、少なくともは数年はAIと一緒にキャリアを積んでいこうと思う。

